凡夫の叙情とエッセイ

頭で考えたり心で考えたりして書き散らす

生きる日々に祝福を

自尊心とは、言ってしまえば人と人との関わり合いや愛の話。
自分が望まれてるのか、自分が許されるのか、自分が認められるのか。そういう話。
価値の主軸が自分の価値観にあったとしても、やはり価値の大小は人を通してフィードバックされるもの。
不自由ってのはすなわち、望まれず認められず許されない事。

本来、人は極力自由にあるべき。
自由とは自分を望み、許し、認める事。
自尊心が低ければ、思うようにそれができない。

「人権がそもそも人に備わっているもの」だとしてもね。
だから自由にあれない事の原因の一つとして、愛の不足はある。
「生きるだけで良い」という愛は、皮肉みたいだが人に活力を許す。

 

だから俺はね、好きな人にくらい示してやりたいと思うね。
愛も好意も生きてるだけで偉いってことも。

長年暑苦しい友人やってるやつにもちゃんと「愛してるぜぇ!」って言うぜ。たまにだけど。

ダーリンダーリン親愛なる君へ……。
わかるね?
愛は君を尊重し、君が君のためにある事を喜ぶ。

だから君は君を許し、望み、それを認めていい。

 

成せる事を成してゆけ。

自分の作品に絶望する事がある。
だから笑って言うんだよ。
「そんな欲望があるなら大丈夫」ってね。
ああ、そう。
才能を理由に始めたわけじゃないから、才能を理由に辞められるわけがない。
ああ、それでいい。
どれだけ駄作でも、どれほど底辺でも、身の程の上へ上へ行くだけだ。

いいよいいよ

優しさに甘えていると愛想を尽かされるのは当然の事だと思いなおした。

それはそうとして、しばしば価値観の違いによる不満に対して用いられる「いいよいいよ」という言葉の謎がわかったかもしれない。

誰の罪でも失敗でもない物事に「いいよいいよ」と言っておきながら、価値観の違いを受け入れておらず怒り出す例があるのだ。その事がわかったかもしれない。


「価値観の違いによる不満を受け入れる事」を「尊重や当然」と考えず「優しさ」と考える人はいるらしい。
「いいよいいよ」という、人との違いを流す言葉が「失敗や罪を受け入れる優しさ」と同等のようなのだ。

「いいよいいよ」は人との違いを受け止める態度に見えてそうではない。

人との違いを「受け入れてやってる」と考える、怒らないだけの傲慢な態度が潜んでいるのだ。

歩み寄りや線引を決めず、一方的に自分の価値観に基づいて善悪を決めてしまう。この事は傲慢以外の何でもないだろう。

 

 

人それぞれ、その時々

最近は、働きながら優しさについて考えています。
「当たり前」や「べき」などと言わず、花や草を育むように、環境や状態など相関する様々な事をその都度考えなければならないなと思い始めています。
優しさとは、とても相対的なものなのだと考えています。

人は人それぞれ生きている。さらには一個の同じ人でさえ同じにあり続けることはできず、他人から見えるのはほんの一面程度です。

優しさとは、それぞれの人と、その時々ときちんと相対し、見えない多面性に対して傲慢にならないことではないでしょうか。

知らぬものは知らぬとして、優しくあるというのは、そのようにしてはじめて準備が整うとても相対的なものなのだと考えています。

私の、私だけの

自分の中に育まれる世界があるのは確かな事

それはきっと宇宙のどこかにある星

それはきっと私にだけわかる事

だから旅に出ようか

世界をもっと育んで

どこかで見つけるまで

いつか真実描けるまで