凡夫の叙情とエッセイ

頭で考えたり心で考えたりして書き散らす

当たり前に自尊心が無いのはおかしいという話

自己否定の積み重ねの先に孤独はある
少なくとも僕の人生とはそうだ
自分の正しさに飢えている、人から嫌われると恐れている
「嫌われていなければ上々」という考えで寂しさを覚えながら人との曖昧な距離を選んだ
幸福や愛も相応しくないものだと気を小さくしたものだ

所謂自尊心や自己効果感について、僕は欠陥しているのだ

望みもあった、自負したいこともあった、やりたいことも、愛されたい情熱も、色色なものが僕にはあった
しかし僕は恥じていた

自分を軽んじていたし、自分が上等な人間とは思っていなかったからだ
情けなくて、劣っていて、嫌われ者だと思っていたのだ

払拭するかのごとく猛進しても、息切れをした時の支えなんかなくて
自嘲する思考に足を掴まれ、転ばされる

僕は僕が嫌いだった
否定する僕は僕の希望が嫌いだったし
肯定する僕は僕の諦念が嫌いだった
僕は僕と嫌い合っていた

いがみ合う矛盾の中で、僕は正しく半端者だったのだ
「愛してほしい!」
その叫びに答える人はいない
半端者が愛されるほど、世の中は退屈じゃないからだ
なにより僕自身が僕を愛さず、僕は僕らしさを押し殺しているのに、人は姿の見えない僕の何を愛するというのだろう?

気付けば三十手前だ、不幸といえども同情も買えないような温い絶望の中で僕の自殺願望は加速する
「僕の人生は失敗だった」と言いそうになる

いくら自分を愛する心が足りていないのだとわかったところで
正直、自分の愛し方なんかわからない

不安や後悔、恥じらいや情けなさなど、そんな自己否定の苦味にやっと気づき始めたくらいなのだ

僕は僕のために、僕の望むように生きてやりたい
人目を恐れず僕は僕を愛してやりたいし
幸福を相応しいとか相応しくないとか考えずに無垢に喜んで受け取りたい

絵を描くのが好きだ、詩や小説を作りたい、映画が面白い、音楽が心地よい、面白い物事を分かち合いたい

きっと長いこと僕は苦味の中で、それが苦味と知らずに狂っていた。自分の望みを忘れようと自分を諦めるくらいには。誰かの否定を恐れるくらいに誰かに依存をするくらいには。

だからどうか、だからどうにか、一歩ずつ。人らしく、自分らしく生きるという事を緊張せずに自然にこなしたい。

今宵今更ながら、自分らしさを育みたい。

気持ち良く生きたい

気持ち良く生きるという事は自分の気持ちを考えるということです

気持ちの都合が良いように生きるという意味であったり、気持ちが盛り上がるように生きるという意味であったりします

ただ何時だって振り返らなければならない事は、気持ち良いのは自分だけだということです

何故なら他人の気持ちは自分とは別ものだからです

気持ちの良いこととは、正義でも正当な事でも正論でもなんでもないのです

自分の都合の主観なのです

 

人の立場を想像しなさい。人の都合を想像しなさい。人の主観を想像しなさい。人の気持ちを想像しなさい。

 

人は人の心で生きていると覚えなさい。

表現は体験によって読み解かれるから

思考というバイブルに私は逃げる。
権威ある書物で私を語ろうとする。
そうして血肉がすり減り、痩せたのが今の私。
祈れ。祈りを体現せよ。
語らうとは、体験によってあなたを知り、体験によって私が知られるという事だ。
私の思考がいくらうず高く権威高く積まれようとも、それじゃあ誰も私を体験しない。

 

嗚呼、芸術家たらん。

メンヘラとばかり付き合いやすい事について(独断と偏見)

その原因を考えてみた。

 

1.メンヘラ以外をフィルターにかけてる

└普通の人は好意が不透明な人を通常好きにならない

 

雑に言うと「脈アリ」「脈ナシ」という感じ。

誰にでも愛想がよかったり好意が曖昧だったりなどな人、甘えたり頼ったり誘ったりができない人。

ざっくりいうと総合的に「脈アリ」と思わないと、普通の人は諦めるかそもそも興味を持たない。

興味を持つとしたら結局、粘着質や距離感のバグってる人となりやすい。

 

よほど刺さる理由もなければ普通の人は手に入るかどうかもよくわからない商品に対して執着しない。他の商品を探す。

 

 

 

 

2.メンヘラをブロックしていない

誰にでも愛想がよい。「悪い人ではない」と認識すると可哀想と思ったり面倒を見たくみたくなったりする。

切り捨てる塩対応が苦手で、メンヘラ達は安心のための寄生先を期待する事になる。

 

メンヘラは安心の乞食だから安心や寂しさの解消の為に手を出せば、すぐに寄生する。

餌をやらないように注意をして、見つけしだいブロックや塩対応をして駆除すべし。

 

 

3.メンヘラを育てる

彼氏彼女となる相手の立場の作り方が下手。

あなたは特別な相手ですよ。と示す事ができなかったり、周囲に異性の影が多い等でいわば「不安を育ててる」状態。

相対的に関係が重くなるほど、リソースに見合う信頼を人は欲する。

「本当に大丈夫か?」という疑心暗鬼を育むと、メンヘラが育つ。

 

「はじめは問題なかったのに、いつの間にかメンヘラになってしまうよ〜」そんな時はメンヘラ(不安)を育ててるかも。

 

主な解決策としては

真面目に言葉や態度で好意を説明する事だったり、誘う甘える頼るなどの、信頼や好意を示す事だったり。

または、飲み会とか友達の家での遊びなどで、連絡をして潔白を示したりすること。(潔白の証明という行為自体が、相手からの不信感を嫌うという好意の裏返しになり得るという点もある)

 

いわば彼氏彼女というのは特別な関係であるが……

例えば「この商品は特別です!」と売りに出された商品を買おうとしたとき「何が特別なの?」と考えると思う。それが不安。

その不安の解消の為に人は「レビュー見る」「商品説明を求める」「保証してもらいたい」と主に考える。

商品への不安が大きければ大きいほど、不安の解消のための行為は細かくなる。

きっと商品への要求は誰でもするようにメンヘラの種は通常誰でも持ってるもの。

(まあ商品と違って相手の為に自分の感情を抑制して、自分で自分の機嫌を取れないというところがメンヘラのメンヘラたる所以なんだが)

 

彼氏彼女という特別な関係において、特別である事の不透明さや商品説明が不十分である事は不安を抱かせることになる。

二度目だが、関係が重くなるほど相対的に不安は大きくなる。

関係が重くなるほどメンヘラになる。という事。

 

 

まあ、はじめからメンヘラな人は人間不信の病気だったりするから何もかもがあなたのせいではないんだけどね。

生きるという事

僕が犬を撫でる時は犬が必要だから撫でるのではないし、犬の温もりに胸を満たすのは犬が必要だからではない。
犬がいなくなって楽になることもあるが、犬が病んでも呼吸があることに感謝した。

僕が生きるという事、愛し愛される事もまた、必要性とは無関係なのだ。

プライド。あるいは敬意。

 恥じない理由を探している時間の多い人生だったと思う。そしてこれから減っても、中々なくなりっこないだろうとも思う。
 僕は洋服が好きだ。しかししばしば「自分なんか」という考えがもたげる。自分の容姿を好きではないし、所謂センスという点においても「安くはない金を払って着る服を着こなせてるのか」なんて事をつい考えて恥ずかしくなってしまう。
 またあるいは、にわかに何かを好きになる。特に理由もなく花の小物なんかを手に取ったり、高い食材に喜んだりする。
 花の名前も知らず、舌も肥えちゃいない。そんな事を思って恥を覚える。
しかしいつ頃かは、そう思う自分に気づいてあげて、仕舞えるようになってきた。
 いつ頃か、人は自分が思うよりも勝手に生きているのだと知ったし、なにより僕自身が体験をする事こそが僕にしかできない事だと思った。
 大した理由や、知識がなくったって「なんかいい」「雰囲気」そんな間抜けな気持ちで選ぶ事は自分を育てるのだと知った。
 なにかと恥じてしまうから、恥な理由を探してばかりいた。
 そうして僕は何かの入り口に立つのが下手だった。

豊か

歩みを止めて空へカメラを向ける人が居た

その真似をするように僕も空を見上げる

変哲のない空に何かを探す野暮はしない

空の中から一番いい空を僕も探す

その良さを心に書き留めて

再び僕は帰路につく